第6章 ベクトル心電図法の長所と短所

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1.ベクトル心電図法の長所

 ベクトル心電図は、直交軸座標を構成する3軸(X、Y、Z誘導)成分の内,2つずつを組み合わせてベクトル環を合成し、空間的心起電力の経時変化を前額面(前面図)、横断面(水平面図)および矢状面(側面図)に投影された環(loop)として記録したものである。標準12誘導心電図法も、空間的心起電力変化を前額面、(肢誘導)、横断面(胸部誘導)に置いた電極で記録し、心臓起電力の空間的特性を把握して臨床診断に役立てようとする方法であるから、本質的にはベクトル心電図法と同じ意義を持つ検査法であるといえる。
 しかし、ベクトル心電図法では、通常の心電図法(スカラー心電図)とは異なる誘導法を用い、異なる表示方法を採用しているため、心電図法とは異なった多くの長所がある。

 以下、ベクトル心電図法が持つ長所を列挙する。

  1) ベクトル心電図法は誘導法が理論的で、通常の心電図法よりも優れている。
   木村誘導、Grishman誘導などのcube system(正六面体誘導系)では、解剖学的な左右(X軸誘導)、上下(Y軸誘導)および前後(Z軸誘導)方向に電極を配置しているため、標準誘導心電図法に比べて心起電力の立体的特性を理解し易い。
 その後に開発されたFrank誘導法などの補正直交軸誘導(corrected orthogonal system) では、心臓の偏心性(胸郭内で左前方に偏在していること)、胸郭内臓器の電気伝導性の不均一性(胸郭内には、心臓、肺、肋骨などのそれぞれ電気伝導性が異なる組織が含まれている)などを理論的考察に基づいて補正し、歪みが少ない心臓起電力の直交軸成分(X軸、Y軸、Z軸成分)を取り出すことが出来るように工夫されている。

   2) ベクトル心電図は直交2軸の位相差をベクトル環として表現し、心起電力の立体的特徴を把握し易い。 
    ベクトル心電図法では、大きさと方向を持つベクトル量を取り扱っており、通常の心電図が単なるスカラー記録であることに対し、情報量が多く、かつ直交3軸成分の内、2軸ずつを用いてリサージュ像を合成し、ベクトル環として表現するため、直交3軸成分の位相の変化を把握し易く、診断に役立てることが出来る。

  3) ベクトル心電図法は時間的に正規化(normalize) された記録である。
   通常の心電図は一定の速度で記録されるため、時間的には均一な記録である。これに対し、ベクトル心電図法では、心房脱分極(P環)、心室脱分極(QRS環)、心室再分極(T環)などのベクトル環を、それぞれ各投影面において、原点から始まり、原点に帰る360度の一定の範囲内に記録するため、時間的には正規化 (normalize) されている。そのため、伝導障害などがあればベクトル環は緩徐に描かれ、心室肥大などがあればベクトル環は迅速に描かれるなど、心室内興奮伝播を具体的に把握し易く、興奮伝導障害の診断に適している。

  4) ベクトル心電図法は高感度記録である。
   通常の心電図記録では、標準感度として1mV=1cmの増幅率が用いられているが、ベクトル心電図では一般にQRS環全体を記録するような標準的な増幅率の記録を行うと共に、P環,U環などの観察のために、高感度記録が併用される。そのため、通常の心電図では記録されない微小電位変化を記録できる。

  5)  ベクトル心電図法は高忠実度記録である。
   一般にベクトル心電図の記録にはブラウン管を用いるため、周波数特性を高帯域まで広げることが出来る。これに対し通常の心電図法では、記録方式として熱ペンと感熱紙を用いているため、増幅器の特性を良くしても、記録器の特性による制約を受け、高忠実度記録が日常的には使用されない。

  6) ベクトル心電図法では解析幾何学的分析や座標変換が容易である。
   ベクトル心電図法では、誘導法として直交軸成分(X、Y、Z誘導)を用いているため、解析幾何学的分析や座標変換など(演算回路への入力)が容易である。このような方法により通常の心電図法では得られない心臓起電力の空間的特性を把握し易い。

  7) ベクトル心電図構成スカラー心電図法の優秀性
   ベクトル心電図は時間的に正規化された記録であるため不整脈の診断に不適であるが、X、Y、Z構成スカラー心電図の記録によりこの短所は容易に克服される。またベクトル心電図構成スカラー心電図には情報の冗長性がなく、心起電力の空間的特性を理解し易い。

 2.ベクトル心電図の臨床上の有用性
   ベクトル心電法には上記のような特徴があるため、標準誘導心電図法に比べて下記のような臨床応用上の有用性がある。

  1) 心筋梗塞の診断:
   ことに高位後壁梗塞、陳旧性下壁梗塞、高位側壁梗塞の診断に関しては、ベクトル心電図の方が通常の心電図法よりも優れている。
 下図は高位後壁梗塞症の診断に、ベクトル心電図が標準誘導心電図よりも有用であることを示す例の心電図およびベクトル心電図である。標準誘導心電図では、U、V,aVF誘導に異常Q波と冠性T波があり、下壁梗塞の診断は容易である。しかし、V1はrsr's'型を示し、不完全右脚ブロックと診断される。V2,3でT波が高く,左右対称的であるから、高位後壁の虚血が考えられるが、V1のQRS波の所見からは高位後壁梗塞の診断を下すことは困難である。ベクトル心電図では、前面図および側面図のQRS環初期成分は著明に上方に偏位し、下壁梗塞に対応した所見を示している。前・側面図ではT環は上方に偏位し、下壁虚血を反映し、この所見も下壁梗塞を支持している。
 注目すべき所見は水平面図におけるQRS環の形態および回転方向である。水平面図QRS環初期成分は正常と同様に前方にでて左側方に向かうが、時針式に回転し(正常は全例が反時針式回転)、QRS環主部はQRS環起始部よりも前方に描かれ、高位後壁壊死部からの梗塞ベクトルの圧迫によるQRS環の変形が考えられる。

高下壁梗塞
V1誘導心電図のQRS波形がrsr's'型を示し、一見、不完全
右脚ブロックに類似するが、これは高位後壁梗塞の表現である。

 下図は下壁梗塞の診断にベクトル心電図が標準誘導心電図よりも有用であることを示す例の心電図およびベクトル心電図である。
 心電図ではV3のQRS波がQS型を示し、V4のやや幅広いq波などから前壁梗塞症と診断される。しかし、U、V,aVF誘導には明らかな初期R波があり、下壁梗塞の診断を下すことはできない。ベクトル心電図では、水平面図QRS環初期成分は左後方に向かい(正常初期中隔ベクトルの欠如→前壁中隔梗塞)、大きく時針式に回転し、左前方からの梗塞ベクトルの圧迫によるQRS環の変形を示す(前壁梗塞)。注目すべき所見は、前面図および左側面図において、QRS環遠心脚が著明に上方に偏位し、時針式に回転している所見である。この所見は、下方からの梗塞ベクトルの圧迫によるQRS環の変形があることを示しており、前壁梗塞に加えて下壁梗塞の合併があることを示している。

前下壁梗塞
心電図U誘導R波の分裂、V誘導S波のスラーが陳旧性
下壁梗塞の表現である。

 下図は高位側壁梗塞の急性期(A)および慢性期(B)の心電図、および慢性期のベクトル心電図(C)である。急性期心電図(A)は典型的な広汎前壁梗塞(高位側壁、前壁中隔、前壁、前側壁)の心電図所見を示す。慢性期心電図(B)ではQRS波の低振幅を認めるが、この心電図からは心筋梗塞の診断を下すことは出来ない。しかし、ベクトル心電図(C)では、前面図QRS環起始部は右下方凸の限局的な陥凹を示し、左上側方(高位側壁)からの梗塞ベクトルの圧迫によるQRS環の変形を示している。水平面図QRS環の左方成分は小さく、QRS環後半は著しく右後方に偏位している(前側壁梗塞)。  

陳旧性高位側壁梗塞
Bの心電図からは心筋梗塞の診断は行い難いが、Aの急性期心電図から本例が急性
心筋梗塞を経過したことは明らかである。ベクトル心電図では、前面図、側面図で、QRS
環起始部が右下方に陥凹し、左上方からの変形梗塞ベクトルの圧迫によるQRS環の変形
所見を示している。

 下図は大動脈弁閉鎖不全症を合併した下壁梗塞の心電図およびベクトル心電図である。心電図ではQRS軸は左軸偏位を示し、胸部誘導QRS波の著明な高電圧を示す。ST部はT、U,aVL,V4−6で低下し、T波はT, aVL, V4−6で陰性である(左室肥大)。ベクトル心電図では、最大QRSベクトルが増大しているが、それ以外にも重要な情報が示されている。前面図QRS環の最大QRSベクトルは水平位(横位心)を示すにもかかわらず、QRS環初期ベクトルは上方に向かい、初期上方時間が延長し、その後のQRS環は時針式に回転し、下壁梗塞に特徴的所見を示している。また、右前方に向かう水平面図QRS環初期ベクトル(初期中隔ベクトル)は増大し、最大QRSベクトルは左後方に向かうが、QRS環は8字型回転を示して左後方に偏位し(左室拡張期負荷)、基礎疾患としての大動脈弁閉鎖不全症の血行動態的負荷様式に対応した所見を示す。

左室拡張期性負荷+陳旧性下壁梗塞
心電図では左室肥大の診断しかできないが、U誘導QRS波のrsR’型、
 V誘導のS波の結節形成が陳旧性下壁梗塞の表現である。ベクトル心電図
では、QRS環初期部分が著明に上方に偏位し、下方からの梗塞ベクトルの圧迫
によるQRS環の変形と考えられ、下壁梗塞の合併が診断される。

  2.右室肥大の診断
  右室肥大の際には、V1で高いR波を示すが、この所見は右室肥大以外にも、高位後壁梗塞、心臓長軸周りの反時針式回転、WPW症候群A型、右脚ブロック、肥大型心筋症、左脚中隔枝ブロックなどの諸種の病態でも認められる。ベクトル心電図はこれらの諸病態の鑑別に有用である。右室肥大の最も特徴的なベクトル心電図所見は、水平面図QRS環の時針式回転である。正常例の水平面図QRS環は全例で反時針式回転を示す。この正常例に見る水平面図QRS環の反時針式回転から、右室肥大の時針式回転に変化する中間過程において、V1のQRS波が不完全右脚ブロックに類似したrsR’型、rR’型等の所見を示す場合がある。したがって、V1がこのような波形を示した場合、右室肥大であるか右脚ブロックであるかを鑑別することが必要である。ベクトル心電図はこのような場合に極めて有用な知見を与える。
 下図はV1がrsR’型、rR’型を示す場合のベクトル心電図水平面図QRS環とV1,V6のQRS波形との関係を示す。

A:正常、B:右脚ブロック、C:右室肥大、D:高度の右室肥大

   A図(正常):水平面図QRS環の初期部分はV1誘導軸の(+)側に投影されて初期R波を描く。このQRS環初期ベクトルはV6の誘導軸の(ー)側に投影されるために初期陰性波(正常中隔ベクトル)を描く。その後のQRS環はV1の誘導軸の(−)側に投影されるため、V1ではr波に続いて深いS波を描き、QRS波はrS型を示す。V6では、QRS環主部はV6誘導軸の(+)側に投影されるため、q波に続いてR波を描き、V6のQRS波形はqR型を示す。
   B図 (右脚ブロック):水平面図QRS環初期ベクトルはV1の誘導軸の(+)側に投影されるため初期r波を描く。それに続くQRS環主部はV1誘導軸の(−)側に投影されるため、V1では初期r波に引き続いて深いS波を描く。水平面図QRS環終末部は、右室への興奮伝導遅延を反映して右前方に突出して遅く描かれる(太い線として描かれる)。その結果、V1のQRS波はrsR’型を示す。V6では、初期QRSベクトルはV6誘導軸の(−)側に投影されるため初期陰性波(q波、正常中隔ベクトル)を描く。QRS環主部はV6誘導軸の(+)側に投影されるため、q波に続いて高いR波を描く。次いでQRS環終末部はV6の誘導軸の(−)側に投影され、かつ伝導遅延を伴うため幅広い、スラーを示すS波を描く。その結果V6はqRS型を示し、S波の幅が広い。
   C図 (右室肥大,中等度):V1.6のQRS波形はB図に類似し、右脚ブロック様に見えるが、水平面図QRS環はB(反時針式)と異なり時針式に回転している。心房中隔欠損症の際によく見る形である。
   D図 (右室肥大、高度):V1のQRS波はrR′型を示し、B図に類似するが、水平面図QRS環は時針式に回転し、QRS環全体として著しく右前方に突出する。ファロー四徴症、肺動脈狭窄症などの際に見る高度の右室肥大の際にこのような所見を認める。

 3.脚ブロックなどの心室内伝導障害の診断

 ベクトル心電図法は、各環(loop)が原点から始まり、原点に終わり、360度の角度の範囲に描かれる時間的に正規化された記録であるから、時間間隔の測定には適しない。ベクトル心電図のこの欠点を補うために、通常、鋸歯状波発振装置によりベクトル環自体に刻時している。興奮伝導遅延があると、少なくとも2投影面においてベクトル環が緩徐に描かれ、刻時点が密集する。このため、ベクトル心電図法では、かえって通常の心電図法よりも伝導障害を把握し易く、しかも ベクトル環自体に刻時されているため、伝導障害が生じている部位を直交軸座標上に明示し得る。逆に小児や心室肥大などでは、QRS間隔に比べてQRS波の振幅が大きいため、刻時点の間隔が長くなり、立体的な心起電力の大きさおよび角度の変化率が大きいことを示している。
 下図は完全右脚ブロック例のベクトル心電図である。QRS環主部は正常と同様に描かれている。水平面図QRS環終末部は刻時点の密集を示し、右前方に突出している。これは遅れて起こった右室興奮を反映しており、右脚ブロックに特徴的な所見である。

完全右脚ブロック:QRS環の刻時点は1.25msecである。

 4.左室の血行動態負荷様式の診断
  心室の血行動態的負荷様式の相違により心電図が特徴的所見を示すことが知られているが、ベクトル心電図は通常の心電図法に比べて心室の血行動態的負荷様式を反映し易い。2例の大動脈弁閉鎖不全症のベクトル心電図を下図に示す。

左室拡張期性負荷を示す2例のベクトル心電図(大動脈弁閉鎖不全)

 上図の2例の大動脈弁閉鎖不全症例に共通に認められる左室拡張期性負荷のベクトル心電図所見は次の如くである。このような所見は通常の心電図にも反映されるが、ベクトル心電図の方がより一層把握し易いい。
   1) 最大QRSベクトルの増大、
   2) QRS−Tベクトル夾角は拡大しない。しかし、この所見については、左室負荷が増大して収縮期性負荷が加わると、QRS−Tベクトル夾角の拡大を示すようになる。
   3) 初期中隔ベクトルの増大:水平面図QRS環初期ベクトルは明らかに右前方に向かい、その増大を認める場合もある。
   4) QRS環遠心脚の伝導遅延:QRS環遠心脚の刻時点の密集を認める。これは不完全左脚ブロック傾向を反映している。
   5) 前面図QRS環最大ベクトルの水平位と反時針式回転(この所見は収縮期性負荷の際にも見る)。
   6) 水平面図QRS環の8字型回転(上図Aで認められる)。

5.心筋虚血の診断
  通常の心電図法では、心筋虚血の際には虚血部に対応する誘導における平低T波、陰性T波などの所見を認める。
 ベクトル心電図では、
  1) 最大Tベクトルの大きさ、
  2) T環の回転方向、
  3) QRS−Tベクトル夾角の拡大、
  4) T環の形態
 などの諸指標を心筋虚血の診断に用いることが出来るため、心筋虚血の診断を通常の心電図法よりも一層精密に行うことができる。T環の形態異常としては、T環の変形、ことにwide T loop (幅広いT環、丸いT環)が有用な指標として用いられている。 

 下図は狭心症例のベクトル心電図であるが、前・側面図のT環の幅が広く、いわゆるwide T loopの所見を示している。 

狭心症例のベクトル心電図:前、側面図にwide T loopを認める。

6.その他  
  標準誘導心電図に比べてベクトル心電図法が有用な場合があることを実例を示しながら解説した。ベクトル心電図法は、心房負荷、心臓位置変化、心室肥大、脚ブロック、心筋梗塞、心筋虚血などの全ての分野において、標準12誘導心電図法よりも有用な情報を提供し得る場合がある。

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