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 1937年(昭和12年)に始まった日中戦争(支那事変)は、当初の日本軍部の予想に反して長期化し、1941年(昭和16年)末からは太平洋戦争(大東亜戦争)が始まりました。開戦当初は戦況が良かったのですが、長期化すると共に、日本軍に不利となり、1942年(昭和17年)には米航空母艦から発進したB25爆撃機が東京を初空襲しました。

 1944年(昭和19年)には、中国重慶を発進したB29爆撃機が九州を初空襲し、同年11月、マリアナ諸島を基地とした米空軍が東京を空襲しました。1945年(昭和20年)3月には東京大空襲がありましたが、同年7月以後は、わが国に対する空襲は頻繁となり、東京をはじめとした日本の大都市(京都を除く)のほとんどが空襲を受け甚大な被害を受けました。

 このような戦況に鑑み、日本全国はいつ空襲の被害を受けるか分からない緊迫した事態となり、全ての家庭は空襲への備えを行うように政府から要請された。脇町のような軍需設備があまりない田舎の町でも、B29爆撃機や艦載機の通り道となり、偶発的な空襲被害を受ける可能性があるようになりました。

 そのため、各家庭は防空頭巾を準備し、空襲警報、警戒警報などが発令された際には、屋内の燈火が外部に漏れないようにしなければならなくなりました。

 このような目的に開発されたのが、燈火管制用電球でする。まず我が家にある2種類の燈火管制用電球を下図に示します。

燈火管制用電球2種類 下方のみ明るい電球
(明暗二段切替え式)
明るい状態 暗い状態

下図はこの電球の包装紙を示します。

燈火管制用電球ケース 管制用電球と

 この電球は、最初は1939年(昭和8年)に、日本が国際連盟を脱退した年に東芝ライテックス株式会社が製作販売したものです。下部のみを照明するようになったタイプの電球は、明るさが二段切り替え式になっており、この電球の受け口のソケットへのねじ込み具合により、明るさを二段に切り替えることが出来るようになっています。すなわち、軽く電球をねじ込むと暗い明度の電球がともり、更に強くねじ込むと明るい明度になります。

 この電球は、9代目誠三が医院を開院して診療に従事していた際に、診療所としての機能上、警戒警報発令程度であれば、診療を継続する必要があったため、数個を購入し、下方のみ明るい電球は薬局の調剤用、半分のみ明るい電球は診察室で使用していました。

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